2018年度
ジャズ大賞
上原ひろみ Hiromi Uehara ピアニスト、作曲家
1979年(昭和54年)3月26日静岡県生まれ。6歳からピアノを始め、早くからジャズに関心を持つ。バークリー音楽大学を首席で卒業。その直前には米テラーク・レーベルより初リーダー作を発表。以降コンスタントにアルバム制作を続けるとともに、おもに自己のトリオを率いて世界中をツアーで回る。2021年東京オリンピック開会式でも演奏。日本が誇るアーティストとして、今後も世界を舞台にさらなる活躍が期待されている。
1979年(昭和54年)3月26日静岡県生まれ。6歳からピアノを始め、早くからジャズに関心を持つ。バークリー音楽大学を首席で卒業。その直前には米テラーク・レーベルより初リーダー作を発表。以降コンスタントにアルバム制作を続けるとともに、おもに自己のトリオを率いて世界中をツアーで回る。2021年東京オリンピック開会式でも演奏。日本が誇るアーティストとして、今後も世界を舞台にさらなる活躍が期待されている。
後藤芳子 Yoshiko Goto ヴォーカリスト
1933年(昭和8年)2月21日東京都生まれ。精華学園高等学校卒業後、1952年「北村英治とリズムメイツ」に参加。NHKテレビのスタート後は多くの番組に出演。1970年の渡米時には佐藤允彦とファースト・アルバムを、1972年には名ベーシスト、レイ・ブラウンとともにセカンド・アルバムを吹き込んだ。帰国後も多くのアーティストと共演するかたわら、ジャズ・スクールにて講師を務め、後進の指導に当たった。現在も都内を中心にステージに立って健在ぶりを発揮している。
1933年(昭和8年)2月21日東京都生まれ。精華学園高等学校卒業後、1952年「北村英治とリズムメイツ」に参加。NHKテレビのスタート後は多くの番組に出演。1970年の渡米時には佐藤允彦とファースト・アルバムを、1972年には名ベーシスト、レイ・ブラウンとともにセカンド・アルバムを吹き込んだ。帰国後も多くのアーティストと共演するかたわら、ジャズ・スクールにて講師を務め、後進の指導に当たった。現在も都内を中心にステージに立って健在ぶりを発揮している。
細川綾子 Ayako Hosokawa ヴォーカリスト
1939年(昭和14年)東京都生まれ。1952年より作曲家、浜口庫之助に師事し、米軍キャンプでプロの歌手としての活動をスタートさせる。1954年にはブルーコーツの専属歌手になり、一躍注目を浴びた。1960年代に渡米し、名門アール・ハインズ楽団に参加。1970年代以降に彼女がスリー・ブラインド・マイス・レーベルに残した諸作は、今なお名盤として語り継がれている。【2020年11月28日逝去】
1939年(昭和14年)東京都生まれ。1952年より作曲家、浜口庫之助に師事し、米軍キャンプでプロの歌手としての活動をスタートさせる。1954年にはブルーコーツの専属歌手になり、一躍注目を浴びた。1960年代に渡米し、名門アール・ハインズ楽団に参加。1970年代以降に彼女がスリー・ブラインド・マイス・レーベルに残した諸作は、今なお名盤として語り継がれている。【2020年11月28日逝去】
2018年度
会長賞
石塚孝夫 Takao Ishizuka プロモーター
1932年(昭和7年)東京都生まれ。戦後間もない時代に観たビックス・バイダーベックをモデルにした映画『情熱の狂想曲』でジャズに目覚める。立川高校在学中に来日したジーン・クルーパ・トリオに感激してドラム奏者を志す。プロ活動の後、1961年に西武グループの音楽イヴェントを企画制作を手掛け、1963年外国人アーティストを招聘するオールアート・プロモーション設立。招聘第1号はキャノンボール・アダレイ・クインテット。以後アート・ブレイキー、MJQ、オスカー・ピーターソン、サド=メル・オーケストラ、カーメン・マクレエなど150以上の著名ジャズメンを招聘。1986年からは富士通コンコード・ジャズ・フェスティヴァルを2011年まで制作。現在も毎年春秋2回のコンサートを自主制作している。【2022年4月4日逝去】
1932年(昭和7年)東京都生まれ。戦後間もない時代に観たビックス・バイダーベックをモデルにした映画『情熱の狂想曲』でジャズに目覚める。立川高校在学中に来日したジーン・クルーパ・トリオに感激してドラム奏者を志す。プロ活動の後、1961年に西武グループの音楽イヴェントを企画制作を手掛け、1963年外国人アーティストを招聘するオールアート・プロモーション設立。招聘第1号はキャノンボール・アダレイ・クインテット。以後アート・ブレイキー、MJQ、オスカー・ピーターソン、サド=メル・オーケストラ、カーメン・マクレエなど150以上の著名ジャズメンを招聘。1986年からは富士通コンコード・ジャズ・フェスティヴァルを2011年まで制作。現在も毎年春秋2回のコンサートを自主制作している。【2022年4月4日逝去】
児山紀芳 Kiyoshi Koyama ジャズ評論家
1936年(昭和11年)大阪市生まれ。関西大学文学部英文科卒。『スイングジャーナル』誌編集長を2期17年にわたって務め、国内外の多くのミュージシャンと親交を結ぶ。1980年代には米レコード会社のマスターテープ保管庫から未発表音源の発掘作業を積極的に行い、『キーノート・コンプリート・コレクション』『ブラウニー:コンプリート・クリフォード・ブラウン・オン・エマーシー』でグラミー賞の「ベスト・ヒストリカル・アルバム部門」に2度ノミネートされた。米『ダウンビート』誌が行う国際批評家投票に唯一の日本人として投票に参加。ラジオDJとしても活躍し、NHK-FM「ジャズ・トゥナイト」に長年出演した。【2019年2月3日逝去】
1936年(昭和11年)大阪市生まれ。関西大学文学部英文科卒。『スイングジャーナル』誌編集長を2期17年にわたって務め、国内外の多くのミュージシャンと親交を結ぶ。1980年代には米レコード会社のマスターテープ保管庫から未発表音源の発掘作業を積極的に行い、『キーノート・コンプリート・コレクション』『ブラウニー:コンプリート・クリフォード・ブラウン・オン・エマーシー』でグラミー賞の「ベスト・ヒストリカル・アルバム部門」に2度ノミネートされた。米『ダウンビート』誌が行う国際批評家投票に唯一の日本人として投票に参加。ラジオDJとしても活躍し、NHK-FM「ジャズ・トゥナイト」に長年出演した。【2019年2月3日逝去】
佐藤允彦 Masahiko Satoh ピアニスト、作編曲家
1941年(昭和16年)10月6日東京都生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。1966年から1968年までアメリカ合衆国ボストン市のバークリー音楽院(現バークリー音楽大学)に留学して作曲・編曲を学ぶ。1969年、帰国後初のリーダー・アルバム『パラジウム』で『スイングジャーナル』誌「日本ジャズ賞」受賞。1970年、ビッグ・バンドのための作品『四つのジャズコンポジション』で芸術祭優秀賞を受賞。以後多くの秀作、問題作を発表。音楽の幅も広く1993年には日本武道館に千人の僧侶を集めて開催した声明コンサート“千僧音曼荼羅”において、作・編曲に加えて音楽監督も担当。1997年、自己のプロデュース・レーベル「BAJ Records」を創設。音楽学校メーザー・ハウスを設立し自身もマスタークラスで講師を務め、多くのプロ・ミュージシャンを世に送り出している。
1941年(昭和16年)10月6日東京都生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。1966年から1968年までアメリカ合衆国ボストン市のバークリー音楽院(現バークリー音楽大学)に留学して作曲・編曲を学ぶ。1969年、帰国後初のリーダー・アルバム『パラジウム』で『スイングジャーナル』誌「日本ジャズ賞」受賞。1970年、ビッグ・バンドのための作品『四つのジャズコンポジション』で芸術祭優秀賞を受賞。以後多くの秀作、問題作を発表。音楽の幅も広く1993年には日本武道館に千人の僧侶を集めて開催した声明コンサート“千僧音曼荼羅”において、作・編曲に加えて音楽監督も担当。1997年、自己のプロデュース・レーベル「BAJ Records」を創設。音楽学校メーザー・ハウスを設立し自身もマスタークラスで講師を務め、多くのプロ・ミュージシャンを世に送り出している。
ジョージ大塚 George Otsuka ドラム奏者
1937年(昭和12年)4月6日東京都生まれ。鈴木章治のバンドボーイから音楽界に入る。1957年渡辺貞夫のコージー・カルテットに参加。その後しばらく和製ポップス・グループで活動。1960年には、かまやつひろしとプレイする。1964年に菅野邦彦らと松本英彦カルテットに参加。ジョン・コルトレーンやマイルス・デイヴィスの影響を受けた当時最先端のモード・ジャズの演奏に励む。1966年に自身初のバンド、ジョージ大塚トリオを結成した。メンバーは市川秀男、寺川正興。1970年代に入り、植松孝夫、大野俊三が参加するクインテットを結成。またフュージョン・グループ、マラカイボを結成するなど日本ジャズ界に貢献した。【2020年3月10日逝去】
1937年(昭和12年)4月6日東京都生まれ。鈴木章治のバンドボーイから音楽界に入る。1957年渡辺貞夫のコージー・カルテットに参加。その後しばらく和製ポップス・グループで活動。1960年には、かまやつひろしとプレイする。1964年に菅野邦彦らと松本英彦カルテットに参加。ジョン・コルトレーンやマイルス・デイヴィスの影響を受けた当時最先端のモード・ジャズの演奏に励む。1966年に自身初のバンド、ジョージ大塚トリオを結成した。メンバーは市川秀男、寺川正興。1970年代に入り、植松孝夫、大野俊三が参加するクインテットを結成。またフュージョン・グループ、マラカイボを結成するなど日本ジャズ界に貢献した。【2020年3月10日逝去】
鈴木 勲 Isao Suzuki ベース奏者
1933年(昭和8年)1月2日東京都生まれ。立教大学在学中に、来日したルイ・アームストロング・オールスターズの公演を聴き、とくにベース奏者のミルト・ヒントンに衝撃を受ける。1956年に米軍ベース・キャンプで演奏を始める。その後、松本英彦カルテット、渡辺貞夫グループに参加し活動。また自己のグループでもライヴ活動を行う。1963年の『幻の“銀巴里セッション”』には菊地雅章、富樫雅彦、金井英人とのセッションを残している。1970年来日したアート・ブレイキーにスカウトされ渡米、ジャズ・メッセンジャーズの一員となり全米、欧州をツアー。帰国後、『ブロー・アップ』などの名作を録音。近年は若手ミュージシャンの教育にも力を注いでいる。【2022年3月8日逝去】
1933年(昭和8年)1月2日東京都生まれ。立教大学在学中に、来日したルイ・アームストロング・オールスターズの公演を聴き、とくにベース奏者のミルト・ヒントンに衝撃を受ける。1956年に米軍ベース・キャンプで演奏を始める。その後、松本英彦カルテット、渡辺貞夫グループに参加し活動。また自己のグループでもライヴ活動を行う。1963年の『幻の“銀巴里セッション”』には菊地雅章、富樫雅彦、金井英人とのセッションを残している。1970年来日したアート・ブレイキーにスカウトされ渡米、ジャズ・メッセンジャーズの一員となり全米、欧州をツアー。帰国後、『ブロー・アップ』などの名作を録音。近年は若手ミュージシャンの教育にも力を注いでいる。【2022年3月8日逝去】
中牟礼貞則 Sadanori Nakamure ギター奏者
1933年(昭和8年)3月15日鹿児島県生まれ。小学生のころからギターが好きで自作の木製ギターを制作したり、蓄音器で音楽を聴いていたりした。18歳で東京都に移住して青山学院大学在学中の1952年にプロ・デビュー。渡辺貞夫、前田憲男、猪俣猛らと共演。1963年に銀巴里セッションに参加。弟子に渡辺香津美がいる。近年は壮年期に優る活動を展開し、2021年には88年の歩みを描いた書籍『中牟礼貞則 孤高のジャズ・インプロヴァイザーの長き旅路』を上梓。『INTER CROSS』(1999年)、『Remembrance』(2001年)、『ギター・サンバ』(2007年)、『Detour Ahead – Live at AIREGIN』(2020年)など、近年もアルバムを数多く発表している。
1933年(昭和8年)3月15日鹿児島県生まれ。小学生のころからギターが好きで自作の木製ギターを制作したり、蓄音器で音楽を聴いていたりした。18歳で東京都に移住して青山学院大学在学中の1952年にプロ・デビュー。渡辺貞夫、前田憲男、猪俣猛らと共演。1963年に銀巴里セッションに参加。弟子に渡辺香津美がいる。近年は壮年期に優る活動を展開し、2021年には88年の歩みを描いた書籍『中牟礼貞則 孤高のジャズ・インプロヴァイザーの長き旅路』を上梓。『INTER CROSS』(1999年)、『Remembrance』(2001年)、『ギター・サンバ』(2007年)、『Detour Ahead – Live at AIREGIN』(2020年)など、近年もアルバムを数多く発表している。
中本マリ Mari Nakamoto ヴォーカリスト
1947年(昭和22年)3月26日宮城県生まれ。3歳よりピアノとクラシック・バレエを学び、10歳で東北児童合唱団に所属。1962年東邦音楽大学付属高校声楽科入学。1970年にジャズ・ヴォーカルを志望し、1973年『アンフォゲタブル』でソロ・デビュー。1978年『スイングジャーナル』読者人気投票でヴォーカル部門第1位。以降8年連続第1位。「高橋達也と東京ユニオン」と、また「三木敏悟とインナーギャラクシー・オーケストラ」とともにモントルー・ジャズ・フェスティヴァルに出演。今日まで全国で精力的に活動を続ける一方、後進の指導にも力を注いでいる。
1947年(昭和22年)3月26日宮城県生まれ。3歳よりピアノとクラシック・バレエを学び、10歳で東北児童合唱団に所属。1962年東邦音楽大学付属高校声楽科入学。1970年にジャズ・ヴォーカルを志望し、1973年『アンフォゲタブル』でソロ・デビュー。1978年『スイングジャーナル』読者人気投票でヴォーカル部門第1位。以降8年連続第1位。「高橋達也と東京ユニオン」と、また「三木敏悟とインナーギャラクシー・オーケストラ」とともにモントルー・ジャズ・フェスティヴァルに出演。今日まで全国で精力的に活動を続ける一方、後進の指導にも力を注いでいる。