一般社団法人日本ジャズ音楽協会理事長小針俊郎は、当協会参加団体である一般社団法人横浜JAZZ協会の理事も務めており、同協会が毎月発行する月刊の会報誌HAMA JAZZにエッセイを連載しています。そこで友好団体である同協会の諒解のもと、当協会のホームページにHAMA JAZZ連載の原稿を一部加筆、修正を行うなどしてここに転載することになりました。今後適宜に本欄に掲載いたしますのでご随意にお楽しみください。
「光陰矢のごとく、今より五十年を過ぎ、顧て明治前後日本の藩情如何を詮索せんと欲するも、茫乎としてこれを求るに難きものあるべし。」 この文章は福沢諭吉が明治10年に書いた『旧藩情』の末尾部分です。書名をご覧になればお分かりのように、自らの出身藩である中津藩(現大分県中津市)の政治、経済、社会状況を分析している書物で、現代語に訳せば「光陰は矢の如し。これから50年も経てば、かつての藩情などは調べようもなくなるだろう。」 執筆された明治10年は西暦1877年。ここから数えて50年後は1927年。5月にチャールズ・リンドバーグが大西洋無着陸横断飛行に成功し、10月には初のトーキー映画とされる『ジャズ・シンガー』が公開されました。日本では昨年末に保険証新規発行が停止されたことで話題となった健康保険法が施行された年でもあります。 時はすでに昭和のモボモガ時代。福沢が予言したように幕藩時代の諸相など一般人にとっては意識にものぼらなかったでしょう。 福沢諭吉には及びもつきませんが、ぼくも2024年が去るにあたって、ある映画をきっかけに50年という歳月を思うこと頻りでした。今回はそのお話をさせていただきます。 この映画は『That’s Entertainment!』。ハリウッド・メジャーの一つであったMGM社のミュージカル映画のアンソロジーともいうべき作品で、1974年の初夏に日本で公開されました。前評判を聞いていたので、ぼくは銀座ヤマハホールで行われた試写会に駆け付けました。この映画から受けた楽しさは言葉では言い尽くせないほどのもので、映画の終了後、新橋駅に向かう銀座の歩道を踊るような足取りで歩いたことを思い出します。 旧臘、ぼくがこの映画を思い出したのは巻頭にMGM社のあるメッセージが掲げられていたからです。その言葉を紹介します。映画はヘンリー・マンシーニがMGMミュージカルで使われた名曲をメドレー形式に編曲した序曲で始まります。曲が終わって次の場面。MGMの<ARS GRATIA ARTIS(芸術のための芸術)>と書かれたロゴの中、通常ならライオンが咆哮するスペースにこんな文字があったのです。 「Beginning Our Next 50 Years…」。日本語字幕が「新たな50年の幕を開く」とあって、ライオンはこの文字が消えたあとに出てきました。続く場面は名曲「雨に歌えば」が使われた映画の各場面で、1929年初の映画ミュージカル『ハリウッド・レヴュー』から1952年の『雨に歌えば』までの4景が紹介されます。このあとタイトルが出て音楽も「That’s Entertainment!」に変わり、11人の特別出演のスターたちの名が映し出されるという流れ。要するにMGM所縁のスターたちが1974年現在の姿で登場し、往時を振り返りながら案内役を務めているわけです。その名をあげればフランク・シナトラ、エリザベス・テイラー、フレッド・アステア、ビング・クロスビー他11人。 このような細かいことまで書けるのはDVDで確認するからですが、上掲の「Beginning Our Next 50 Years…」だけは試写当日に頭に刻まれました。何故といえば、余りにも遠い未来だったからです。当時26歳だったぼくにとって半世紀先のことなど想像もできません。若い盛りで今日を、明日を楽しむことしか考えていなかった。しかし現実は無情にもぼくの上にも時を刻み、今や老いを養う年齢になった。 MGMを思えば『That’s Entertainment!』公開当時はすでに斜陽で日本支社が閉鎖された年でもあります。こんな環境下ではありましたが、だからこそ盛時の威容を映画史に刻印する狙いが制作陣にはあったでしょう。その後MGMは投資家の間で売買が続き、現在はAmazonの所有になっているとか。 公開当時の批評も「いま必要な映画だろうか」と酷評でした。この年のヒット映画は『日本沈没』、アメリカ映画は『スティング』。両者とも実によく出来た作品です。これらと比べると確かに『That’s Entertainment!』の無邪気さ、能天気さが際立ちます。案内役の一人が言った言葉ですが、そこには深い思想などない。あるのは1930年代から50年代までのアメリカが持っていた歌とダンスだけ。 試写の帰りに銀座通りで踊り出したくなったぼくは、ただ素晴らしさに酔っただけですが、DVDで繰り返し鑑賞するうちに能天気にみえた歌と踊りの芸の深さと、これを産み出そうとする制作者たちの意志の高さに惹きつけられてくる。自慢ではないが、ぼくは往年のアメリカ映画の名作は大概観ています。例えばジョン・フォードの『怒りの葡萄』、エリア・カザンの『エデンの東』などと比べても『That’s Entertainment!』の感動は勝るとも劣らない。それは芸と芸術とを問わず、人間の能力を最大限に注ぎ込み、なお努力の痕跡すらみせない小気味よさにあると思うからです。『That’s Entertainment!』初見から50年。ぼくにとっては、芸の要諦をこう捉えるための時間でした。 馬鹿なことに時間を費やす奴だとお考えの方もいらっしゃると思いますが、生まれながら鈍才故ご容赦を。
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一般社団法人日本ジャズ音楽協会理事長小針俊郎は、当協会参加団体である一般社団法人横浜JAZZ協会の理事も務めており、同協会が毎月発行する月刊の会報誌HAMA JAZZにエッセイを連載しています。そこで友好団体である同協会の諒解のもと、当協会のホームページにHAMA JAZZ連載の原稿を一部加筆、修正を行うなどしてここに転載することになりました。今後適宜に本欄に掲載いたしますのでご随意にお楽しみください。
長年読もうと思いながら放置してきたある本を最近精読しました。それは上田秋成の『雨月物語』。江戸文学ですから『源氏物語』などより余程読みやすいのですがなにしろぼくは古文に弱い。挫折を恐れて現代語訳を買いました。このなかに『巻之四 蛇性の婬』というお話がありますので、今年の干支である乙巳(きのとみ)に因んでこの一編をご紹介します。ジャズと結びつけるこじつけがうまくいきますかどうか。まずは梗概を。 紀伊国の三輪が崎(和歌山県新宮市)の網元の息子に豊雄という美貌の男がいた。荒くれの漁師たちの間に育ちながら優しい性質で頭もよく新宮の神官に師事していた。ある日、講義が終わると雨が降ってきたので師から雨傘を借りて帰路についた。雨足がひどくなってきたので漁師の家の軒先を借りて休んでいた。そこに貴婦人とも見紛う美しい女がやはり雨宿りに立ち寄った。一目で彼女に魅せられた豊雄は雨傘を押し付けるように貸し与えた。その晩、真女児(まなこ)と名乗るその女の夢を見た豊雄は、翌朝教えられた家を訪ね真女児の歓待をうける。二人は理無い(わりない)仲となるのだが、ある事件が起こり女は蛇の化身であることが露見。豊雄の身を案じた親が大和に嫁いだ姉の家に転居させる。しばらく安寧に暮らしていた豊雄に縁談が持ち込まれる。「独り身でいるから妖魔が付きまとうのだ」と親兄弟も結婚に賛成である。新婦は富子といって朝廷に仕えていた都ぶりの美人。新婚二日目の夜のこと。豊雄は戯れに「宮中ではさぞ男にもてはやされたことだろう」というと富子は真女児の声音になってこうこたえる。ここは原文を引きます。 「海に誓ひ山に盟ひし事を速くわすれ給ふとも、さるべき縁のあれば、又もあひ見奉るものを、他し人のいふことをまことしくおぼして強ちに遠ざけ給はんには、恨み報いなん」 大意は「過去の契りを忘れ他の女を寵愛するとは、あなたにも増してこの女が憎い」。蛇の化身真女児が富子に化けて豊雄の前に現れたのです。 真女児の執念深さを恐れた豊雄や家族は、調伏のため小松原の道成寺(和歌山県の天台宗の寺院)の法海和尚を呼びにやる。和尚は古い袈裟を与え、ひとまずこれを富子に被せておけという。豊雄が言われたとおりにすると富子の背には三尺ほどの白蛇がとぐろを巻いている。そこへ到着した和尚はこの蛇をとらえて持参の鉄の鉢に入れ、寺に持ち帰った。以下原文。 「堂の前を深く掘らせて鉢のままに埋めさせ、永劫があひだ世に出づることを戒しめ給ふ、今猶蛇が塚ありとかや」 豊雄はその後恙なく生き命を全うした。と物語は終わっています。 蛇はその生命力の強さから執念深い生き物とされてきました。タイトルの『蛇性の婬』は淫と読むべきなのでしょう。男女の正しくない交わりと解されます。女性の情事に対する深い情動と嫉妬を題材とする物語です。寺院の名が出てきたことでお分かりのように、この物語は安珍清姫伝説に基づいています。以下、歌舞伎舞踊として作られた『京鹿子娘道成寺』の梗概です。 桜も満開の道成寺では、大蛇に巻かれで焼け落ちた鐘が新鋳されて今日は鐘供養の日。そこへ白拍子花子と名乗る女がってやってくる。女人禁制の寺なのだが美しい花子を見て所化(小坊主)たちは大騒ぎ。舞を舞うならと花子の入山を許してしまう。花子は舞ううちに鐘に近づきついに鐘の中に入る。所化たちが驚く間に花子は蛇体に変じて鐘の上に現れる。 『京鹿子娘道成寺』は娘踊りの長唄の大曲で、女形の艶やかな踊りが見どころですが、「鐘に恨みは数々ござる」という詞章のとおり本質は女の恋への執念と嫉妬。『蛇性の婬』の鉄鉢が大きな釣鐘に代えられていますが、これを焼き尽くすというところが女の情の恐ろしさでしょう。女性に縁のないぼくは、ここまで想われてみたい気もしますが。 さて、こじつけです。情の深い歌といえば極めつけはビリー・ホリデイでしょう。ここでは1944年4月1日録音のコモドア盤から「I’ll be Seeing You」をあげます。タイトルを意訳すれば「またお会いしたいわ」。彼女の恋しい人は既に遠くに行ってしまっている。彼女は彼の面影を胸に秘め、彼と訪れたであろう場所を一人さまよう。「小さなカフェ、通りの向こうの公園、子供たちが遊ぶ回転木馬、栗の木や祈りの泉」。それらすべてに彼女は彼の姿を見出している。ビリーの歌の凄みは、こうした平凡な風景を歌いながら肉体性を感じさせることです。手を差し伸べても彼はそこにはいない。かつてはその腕で彼を抱きしめ、彼も力強く彼女を抱擁したのでしょう。温かな肉体性と、彼の不在による空虚感が拮抗して、いま主人公は思考停止状態にある。それでも吐露せざるを得ない感情を彼女は絶唱している。愛だの恋だのとは一言もいわずに。 コモドア時代は彼女の絶頂期です。他にも名作「奇妙な果実」「ファイン・アンド・メロウ」「水辺にたたずみ」など傑作が多い。女性の情の深さを知るには絶好の名演揃い。興味のある方は是非聴いてみてください。 一般社団法人日本ジャズ音楽協会理事長小針俊郎は、当協会参加団体である一般社団法人横浜JAZZ協会の理事も務めており、同協会が毎月発行する月刊の会報誌HAMA JAZZにエッセイを連載しています。そこで友好団体である同協会の諒解のもと、当協会のホームページにHAMA JAZZ連載の原稿を一部加筆、修正を行うなどしてここに転載することになりました。今後適宜に本欄に掲載いたしますのでご随意にお楽しみください。
オールド・ファンから初心のファンまで、多くのジャズ愛好家に好まれている曲の一つがビル・エヴァンスの名演「Waltz for Debby」ではないでしょうか。私も1960年代の半ばころ野毛のジャズ喫茶ちぐさではじめて聴いたときは、可憐ともいえる美しさに驚きました。というのも、それまで主に聴いていたのがバド・パウエルやセロニアス・モンクでしたから、その印象は一陣の涼風を浴びたように感じたのです。エヴァンスの特徴は「Bill Evans Voicing」と呼ばれるもので、単純に言えば左手がコードを押さえるときにルート(根音)を省く奏法です。するとハーモニーが安定感を失い曖昧な響きになる。旧来ならば避けるべきとされた奏法ですが、エヴァンスはむしろ<曖昧さ=アドリブの自由度>のために多用したのです。 常にジャズのトップ・ランナーでありたいと考えていたマイルス・デイヴィスがこんな彼に眼をつけないはずはありません。1958年5月録音の『1958 Miles』から彼のセクステットに加わったエヴァンスは半年ほど在団します。そして翌1959年の春、名作『Kind of Blue』録音に際してマイルスはすでに退団していたエヴァンスを呼び戻すのです。今やレギュラー・ピアニストの座にはウィントン・ケリーがいるにも関わらず。 こう言ってはケリーに気の毒ですが、5曲収録のこの作品の中でケリーの演奏は「Freddie Freeloader」のみです。ハードバップの気分を残すこの曲におけるケリーのブルース演奏は立派なものですが、他の収録曲「So What」「Blue in Green」「All Blues」「Flamenco Sketches」のたゆとう漂泊感は彼には出せなかったでしょう。ブルースのコード進行に忠実すぎるからです。彼のバッキングでソロをとるマイルス以下ジョン・コルトレーン、キャノンボール・アダレイも自ずと伝統的なブルースになってしまっています。つまり「Freddie Freeloader」は完璧な『Kind of Blue』のなかで、エヴァンスがいないだけに一種異彩を放つ曲だと思います。 その後エヴァンスは1959年暮れにスコット・ラファロ(b)、ポール・モチアン(dms)とともに自己のトリオを組み『Portrait in Jazz』を録音。このメンバーで人気と名声を確立する訳ですが、洒落たスタンダード・ソングを次から次へと取り上げて、前述の「Bill Evans Voicing」で演奏するので夢幻的なサウンドがとても耳に心地よい。その白眉が1961年にヴィレッジ・ヴァンガードで録音された「Waltz for Debby」というわけです。 さて、ここまでエヴァンスの顕著な業績について書いてきましたが、実はぼくはエヴァンス・スタイルのピアノに少々辟易としています。エヴァンスの非常に斬新なハーモニー感覚に影響を受けた後続のピアニストがあまりにも多すぎる。根音省略形というコードはクラシック古典派の時代からありましたし、20世紀フランス印象派の音楽にも多用されてきました。これをジャズの演奏に取り入れてアドリブの可能性を押し広げた功績は偉大であることに違いなないですが……。 ここから今回の主題に入ります。ビル・エヴァンスと並んでモダン・ジャズ・ピアノの奏法を刷新したもう一人の巨人がマッコイ・タイナーです。フィラデルフィア生まれの彼は1955年17歳のときにジョン・コルトレーンと知り合い。1960年に彼のカルテットに迎えられます。ビル・エヴァンスより9歳年下ですが、本格的な活動開始はエヴァンスとほぼ同時期といっていいでしょう。 当時のジャズ・ピアニストの多くがセロニアス・モンクとバド・パウエルの影響下にありましたが、タイナーもその例にもれず若き日は彼らの信奉者でした。コルトレーン・カルテットに加わると、劇的に進化し続けるコルトレーンの音楽に合わせるようにパーカッシヴなものに変化します。師と仰ぐモンク、さらにはデューク・エリントンの奏法の影響もあったでしょう。音遣いもパウエル主導のバップ・ピアノとは明らかに違っている。ビル・エヴァンスと並んでタイナーの後世への影響力の大きさはこの点に拠るものです。 ざっと見渡したところ、この二人に追随するピアニストの数は、ぼくにはエヴァンスの方が圧倒的に多いと見えます。タイナー派はある時期のチック・コリアほか数人にすぎません。ぼくのジャズの好みからいって残念なことではあるのですが、この6月、若い日本女性がタイナーもかくやというというピアノを聴かせたのに仰天しました。それもこの横浜で。 この女性はMasumi Yamamotoという方で、ロサンジェルスで20年にわたってピアニスト、作曲家として活動。現地でTLQ Plusというバンドをサックス奏者のTrevor Lawrenceと結成して大活躍。ぼくが聴いたのはこのバンドの来日公演で、まさにタイナー在籍時代のコルトレーン・カルテットを髣髴とさせる演奏でした。 (理事長 小針俊郎) 一般社団法人日本ジャズ音楽協会理事長小針俊郎は、当協会参加団体である一般社団法人横浜JAZZ協会の理事も務めており、同協会が毎月発行する月刊の会報誌HAMA JAZZにエッセイを連載しています。そこで友好団体である同協会の諒解のもと、当協会のホームページにHAMA JAZZ連載の原稿を一部加筆、修正を行うなどしてここに転載することになりました。今後適宜に本欄に掲載いたしますのでご随意にお楽しみください。
外山喜雄とディキシー・セインツは横濱ジャズプロムナードの元町パレードに毎年出演する人気バンドで市民にもお馴染みの存在です。外山さんは自他ともに認めるサッチモ、ルイ・アームストロングの大の信奉者です。 7月6日(土)に外山喜雄・恵子夫妻が主宰する日本ルイ・アームストロング協会設立30周年を祝う「感謝の会」が上野精養軒で行われました。横浜ジャズ協会にもご案内がありましたので、加藤寛理事長とともに出席してまいりました。 外山喜雄さんは早稲田大学ニューオリンズ・ジャズクラブ(通称ニューオリ)出身で、クラブで知り合ったピアニスト恵子さんと結婚。新婚早々の1967年12月30日に夫婦で横浜港からぶらじる丸に乗り込み、ニューオリンズへジャズ武者修行の旅に出発したという輝かしい経歴を持っています。 彼の地ではジャズの聖地とされるプリザヴェーション・ホール裏のアパートに住み込み、連日土地の古老たちと演奏を共にし、ニューオリンズ・ジャズの真髄を学びました。この渡米を機会として全米やヨーロッパにも足をのばし、帰国後の1975年にディキシー・セインツを結成。1983年の東京ディズニーランド開業から2006年まで同園のアトラクションとして人気を博します。 日本ルイ・アームストロング協会は、外山夫妻が尊敬するジャズ史上最大の巨人を顕彰する目的で1994年に創立されました。協会の果たした重要な事業がニューオリンズの子供達に楽器を贈る運動です。1990年代に再訪したニューオリンズの荒廃に接し、ドラッグや銃から子供たちを音楽で救おうという志でした。日本全国から中古の楽器を集め、一つ一つ修理を施し今日まで850本の楽器を送り出しました。夫妻はこの功績によって2005年8月に外務大臣表彰を受けています。 「感謝の会」は250人の方々が集う大規模なもので、ディキシー・セインツの他に北村英治さん、中村誠一さんなどのゲスト・ミュージシャン、ニューオリのOBや現役の演奏も行われ賑やかに行われました。 加藤理事長と私はステージに最も近い円卓に案内され、私が理事を務めるもう一つ団体である日本ジャズ音楽協会の靑野浩史さん、田中ますみさん、四谷いーぐるの後藤雅洋さん、音楽評論家の岡崎正通さん、村井康司さんらと楽しく歓談しました。 この時、私の脳裏浮かんだことは、外山夫妻をここまで突き動かしているルイ・アームストロングという存在の大きさでした。私が学生時代(1960年代後半)にスイングジャーナル誌に連載されていた油井正一氏の「ジャズの歴史物語」(1972年スイングジャーナル社より単行本化。現角川ソフィア文庫)のルイ・アームストロングの項目にこんな記述がありました。 「白いハンカチで汗をぬぐいながら恰幅のいい爺さんが目玉をクルクル動かして<ハロー・ドーリー>を歌う。喝采にこたえて後半部を二度三度とくりかえし、歌い終わると両手で投げキッス。次に歌うのは<ブルーベリー・ヒル>だ。こんな寄席芸人じみた爺さんが、本当にジャズ史上最高の巨人だったのだろうか」 これはサッチモが偉大だと聞いてコンサートに出かけたファンの「彼のどこが偉大なのか」という質問に対する油井さんの回答です。彼はこう続けます。 「ジャズは芸術だと信じるファンにとって芸人的なサッチモのステージは屈辱的なものだっただろう。ところがサッチモ自身の見解は全く反対なのだ。彼の見解にしたがえばジャズは芸術ではなく大衆演芸の一種なのである。にもかかわらず、芸術といわれるジャズをつくった当の男がルイ・アームストロングなのだ。この矛盾にみえる論理を理解しないとジャズはあなたのものにならないのである」 戦後にオールスターズを率いて作ったライヴやスタジオ録音は現在も容易に入手できるし、人気もあります。<ハリー・ドーリー>も大ヒットしました。しかし、油井さんに質問したファンと同じように、これらを聴いただけでは私も彼の真の偉大さが解りませんでした。そこであるとき思い切って『Louis Armstrong The Complete Masters 1925-1945』という14枚組のCDを入手しました。14枚目はKing Oliver’s Creole Jazz Bandのメンバーだった頃の録音他の付録的なものですが、1~13枚目までは1925年11月Hot Fiveの初録音から1945年1月録音のLouis Armstrong & his Orchestraまでの331曲。仕事をしながら聞き流すこともありましたが、1925~28年のHot Fiveの演奏の多くは鳥肌が立つような凄みがあり、良好とはいえない録音の彼方から聴こえてくる彼の独奏はまったく古びていないのです。サッチモ以降の芸術的とされる偉人数あれど、一人としてサッチモ影響を被らなかった人はいないと確信できました。 こうしたサッチモ再考の機会を与えてくれたのが外山喜雄・恵子夫妻です。「感謝の会」で供された美酒佳肴を楽しみながら、私はこんなことを考えておりました。 (理事長 小針俊郎) 一般社団法人日本ジャズ音楽協会理事長小針俊郎は、当協会参加団体である一般社団法人横浜JAZZ協会の理事も務めており、同協会が毎月発行する月刊の会報誌HAMA JAZZにエッセイを連載しています。そこで友好団体である同協会の諒解のもと、当協会のホームページにHAMA JAZZ連載の原稿を一部加筆、修正を行うなどしてここに転載することになりました。今後適宜に本欄に掲載いたしますのでご随意にお楽しみください。
4月Saturday Afternoon Jazz Partyで田中和音さんを招いてデューク・エリントンの特集をしたと思ったら、5月25日(土)と6月15日(土)には四谷いーぐるで外山喜雄夫妻と共に『Duke Ellington on Film』という講演会。そして6月9日(日)には若者たちのビッグバンドを戸塚のさくらプラザホールで聴かせていただきました。という訳でここしばらく僕はビッグバンド漬けになっていました。そこで今回は僕のビッグバンド経験のお話をお届けします。 ジャズ・ファンの中にはモダン・コンボしか聴かないという方も多く、ビッグバンドなんて古臭いの一言で片づけてしまう風潮があることは承知しています。しかしビッグバンドにはコンボ演奏に求められない魅力がたくさんあります。 まず15人ほどのプレイヤーが合奏する音の迫力。洗練されたアレンジ、豊かなハーモニーと色彩感。ダイナミック・レンジの大きさなど。聴いてすぐにわかる魅力の他に、一流バンドともなれば各セクションに何人ものソロの達人がいます。ビッグバンドは1920年代から存在しました。わが国にも1930年代から中沢寿士、松本伸、ジミー原田などの人気バンドがありました。ジャズが敵性とされた太平洋戦争を挟んで、戦後は米国から素晴らしいビッグバンドが続々来日します。戦後間もなくは米軍基地慰問のため一般公演はありませんでしたが、日本の庶民が最初に耳にしたスター・プレイヤーは1952年11月のジーン・クルーパ、1953年のJATP、同12月のルイ・アームストロング。1956年レス・ブラウン楽団、1957年1月ベニー・グッドマン楽団。まだ子供だったのでこれらは聴いていませんが、僕が最初に接した来日ビッグバンドは1963年4月のライオネル・ハンプトン楽団、5月のカウント・ベイシー楽団、64年1月のレイ・マッキンレイ指揮のニュー・グレン・ミラー楽団、4月のハリー・ジェイムズ楽団、6月のデューク・エリントン楽団などです。 思えばここに名をあげた人々は全て故人です。ビッグバンドがビッグバンドらしかった時代に生きてこられてよかったと思いますが、懐古趣味に浸っている場合ではないと希望を持たせてくれたのが上述6月9日(日)に聴いたBIG BAND PARTYです。出演バンドは「富士学苑中学・高等学校ジャズバンド部」「Sasage Several Guys Orchestra」「Swing Bees Jazz Orchestra」「横濱J &Bオーケストラ」「横濱音泉倶楽部」の5バンド。個別に論評する場ではないので評言は控えますが、彼らの演奏を聴いてつくづく思ったのは「なんて上手いんだろう!」ということ。そして思い出したのは僕が彼らと同じくらいの年代に体験したことです。 僕が中高生時代を過ごした1960年代。通っていた学校にも吹奏楽部がありました。彼らが演奏するのは専らスーザの行進曲などで、ジャズの演奏は禁じられていました。指導の教師にとってジャズとは騒々しいだけの下等な音楽だったのでしょう。 ある事件を目撃したことがあります。僕が高校一年か二年生のときだったと思います。ある日、学校の式典で吹奏楽部が舟木一夫のヒット曲「高校三年生」を演奏しました。部員のなかでは高校生の青春を歌ったものだから学校側も容認するだろうという思い込みがあったのかもしれない。曲も2拍子でマーチ風だからやってみようと。ところがこれを聞いた校長が壇上にあがって、流行歌などは不謹慎だと長々と説教を垂れた。僕にとってはどうでもいい曲なので、校長の怒りを嗤っていましたが。 この事件からややあって、我々は紅葉坂の神奈川県立音楽堂で横須賀米海軍基地所属の軍楽隊の演奏会を鑑賞することになりました。本場の精鋭たちの演奏によって吹奏楽の真髄を学ばせようという課外教育だったのでしょう。ステージ上には紺色のセーラー服を着た大男たちがずらり。体格にふさわしく、その音の太くたくましいこと、そして艶やかで美しいことに感動しました。 そしてここでも事件が起こります。第二部が始まると、指揮者を要とする扇型の配列が、下手にリズム・セクション、上手寄りにブラスとリード・セクションというビッグバンドの並び方に代わっているではありませんか。見守るうちに聴こえてきたのはカウント・ベイシーのような紛うかたなきビッグバンド・ジャズ。僕は心の中で快哉を叫びましたが、引率の教師たちは生徒をまずいところに連れてきたという面持ち。まさか米海軍軍楽隊を叱責するわけにもいかず、なんとか体面を保とうする彼らをみて、ここでも僕は嗤いました。 あれから60年。ジャズは唾棄すべき下劣な音楽から、青少年が学ぶべき音楽になりました。父兄教師ともこれを容認するどころか、賞賛さえする風潮があります。この変化の要因はなにか。 日本文化研究者で早稲田大学名誉教授のマイク・モラスキーは著書『戦後日本のジャズ文化』(岩波現代文庫)のなかで、映画監督の黒澤明が作品中(『酔いどれ天使』『生きる』他)に使う音楽の種別を分析し、クラシック(的な音楽)を高尚文化の表象。ジャズ(的な音楽)を「下層の俗な汚れた世界を象徴」であり「堕落の世界、浅薄な精神、そして狂気」に結びつくものと考察しています。 黒澤がこのように音楽を使い分けたということは、それが当時(1950~60年代)の世間常識に即した演出手法と確信していたためだったでしょう。確かに当時の一般のジャズ認識は雑駁なもので、クラシック以外の欧米から渡来する音楽(ラテン、シャンソン、ハワイアン、カントリー他)はすべてジャズの一言で片づけられる傾向がありました。それが象徴するものが堕落や狂気でした。 演奏家本人もバンド稼業と自嘲し、不品行を嘯く節がありました。教師や父兄が子弟の感化を警戒しないはずはありません。しかし日本が豊かになるとともに、偏見に満ちた固定観念が薄れはじめます。ジャズの高度な芸術性やクラシックに劣らぬ楽理体系が見直されるようになり過度の警戒心も寛解。現在では一流の音楽大学にもジャズ科が設置されています。世界的にみても優秀な音大出身のジャズ・パーソンは少なくありません。では現在のジャズに、かつてのチャーリー・パーカーやスタン・ゲッツ(天才を謳われる一方不品行でも有名)を凌ぐ存在があるのか。 芸術をとらえる上で、品行と狂気という背反する問題がそこには横たわっていると思います。クラシックの世界でもモーツァルト、シューマン、ワーグナーなど狂気紙一重の人が多くいるわけですし。 (理事長 小針俊郎) 一般社団法人日本ジャズ音楽協会理事長小針俊郎は、当協会参加団体である一般社団法人横浜JAZZ協会の理事も務めており、同協会が毎月発行する月刊の会報誌HAMA JAZZにエッセイを連載しています。そこで友好団体である同協会の諒解のもと、当協会のホームページにHAMA JAZZ連載の原稿を一部加筆、修正を行うなどしてここに転載することになりました。今後適宜に本欄に掲載いたしますのでご随意にお楽しみください。
ちょうど10年前の2014年2月に横浜市戸塚区民文化センターさくらプラザで行われた「魅惑のJAZZレコード展」は、当時横浜JAZZ協会の副理事長だった高桑敏雄さんや理事の柴田浩一さん(お二人とも故人)の協力で開催されました。この催しのPRを兼ねて、僕は同年1月号のHAMA JAZZにこんなことを書いておりました。 「現在はダウンロード購入する人もいるから、ジャケットの魅力と言ってもピンとこないかも知れない。しかし1948年にLPが発明されて以来30年余は、レコードといえば10インチ盤(25センチ)、12インチ盤(30センチ)を指した。それ以前の記録媒体はSPで、これは中心にレーベル面を露出した丸い穴が開いたペラペラの紙で包まれていただけだった。紙に印刷されていたのはレコード会社名や、他のカタログ等で、丸い穴は収録曲を知るためのもので両面に開いていた」 オールド・ファンはこんなSPの包装のことを覚えていらっしゃると思います。LPの出現は長時間収録が可能になっただけではなく、盤の包装形態にも革命を起こしたのです。 拙文の引用を続けます。 「長時間演奏が可能になったLPの発売に際して、レコード各社は価格が上がることもあって、単なる包装紙であったものに付加価値をつけることを考えた。ペラペラの袋状のものを厚いボール紙にして表面にデザインを施し、裏面に収録曲や詳細な解説を印刷したのである。30センチLPのジャケットは12センチ角のCDの6.25倍の面積があるから、写真家やイラストレーター、デザイナーにとって、腕を振う格好の場でもあった」 LPレコードはコロムビアが先行しメジャー各社はこれに追随しますが、ジャケット・デザインの面ではマイナーのジャズ・レーベルが圧倒的に優れていました。メジャーが単に商品価値をあげるために美麗であることを競ったのに比べ、ジャズ・レーベルは音楽の特異性や強烈な魅力を視覚化して、試聴するまでもなくユーザーに音楽の本質を伝えたのです。 脚線美ジャケットとして有名なソニー・クラークの『クール・ストラッティン』<ブルーノート>やマイルス・デイヴィスの『クッキン』<プレスティッジ>で有名なリード・マイルスなどと並んで、1940年代半ばからノーマン・グランツの<クレフ>と<ノーグラン>レーベル(後に<ヴァーヴ>に統合)で辣腕をふるったデヴィッド・ストーン・マーティン(DSM)もこの世界の代表的なデザイナー(イラストも)です。彼の初期の有名な作品はグランツのプロデュースするJazz At The Philharmonic(JATP)のロゴです。赤いジャケットのトランぺッターを斜め下から描いたもの。細い線で指や顔を繊細に描く一方、大胆に引かれた太い線で衣類の揺れまで感じさせるダイナミズム。そして見ただけで音が聴こえてくるようなリアリズム。 グランツはDSMの仕事に絶大な信頼を置き、以来1960年頃までグランツが手掛ける多くのアルバムのジャケットを作り続けます。アーティスト名をあげればチャーリー・パーカー、レスター・ヤング、バド・パウエル、スタン・ゲッツ、アート・テイタム、オスカー・ピーターソン、ビリー・ホリデイ、ディジー・ガレスピー等々。名をみるだけでグランツが如何にジャズ史上の巨人たちの盛時を情熱的に捉えていたことか。そしてジャズ・ファンでもあったDSMが彼らの演奏を聴くことによって、どれほど美術家としての霊感を発動させたことか。 レコード・ジャケットというものが、単に商品の付加価値ではなく、音楽の感動とともに長く人々の記憶に残るものであるかがご理解いただけると思います。 こんなレコード・ジャケットの世界に興味をもっていただいた方に、村上春樹の新著『デヴィッド・ストーン・マーティンの素晴らしい世界』をご紹介します。 村上は音楽にまつわる著書、訳書をたくさん発表していますが、本書は題名通りここに紹介したDSMのジャケットを演奏家別に整理し、その音楽的内容にまで言及した熱烈なジャズ・ファンの村上らしい好著です。 僕がDSMのデザインするジャケットで強烈な印象を持ったのは『BILLIE HOLIDAY AT JAZZ AT THE PHILHARMONIC(MG C-169)』です。これはインストルメンタルが中心だったJATPに初めのヴォーカリストとしてビリー・ホリデイを起用したライヴ録音です。最初は1945年2月12日録音の「ボディ・アンド・ソウル」と「奇妙な果実」を収めたEP盤として発売され、後に同じJATPコンサートにおける録音を加えてLPになりました。 ジャケットにはベッドの傍らに座り込み、泣き崩れるようにシーツに顔を伏せる裸の女性の姿が描かれています。そして意味深長なのは外れたままの電話の受話器がベッドの上にころがっていること。彼女は今しがた終わった電話の会話に失望して泣いている。何がそれほど彼女を悲しませているのか。 村上春樹はこのデザインを作ったDSMの心境をこのように説明しています。 「このような構図は彼がホリデイの歌唱に深い悲しみを感じ取っていたことを示している」。 そして僕が全く知らなかったことを明かしてくれます。 「この女性はDSMの奥さんのグローリアをモデルに使ったということだ」。 春樹さんの、こんな博識ぶりも楽しめる『デヴィッド・ストーン・マーティンの素晴らしい世界』は文藝春秋社から出ています。お値段は2,300円(+税)。視覚からもジャズを楽しみたい方にお薦めします。 (理事長 小針俊郎) 一般社団法人日本ジャズ音楽協会理事長小針俊郎は、当協会参加団体である一般社団法人横浜JAZZ協会の理事も務めており、同協会が毎月発行する月刊の会報誌HAMA JAZZにエッセイを連載しています。そこで友好団体である同協会の諒解のもと、当協会のホームページにHAMA JAZZ連載の原稿を一部加筆、修正を行うなどしてここに転載することになりました。今後適宜に本欄に掲載いたしますのでご随意にお楽しみください。
我国が誇る世界的な大指揮者、小澤征爾の訃報が届いたのが、さる2月6日(2024年)のことでした。僕は中学校入学とともにジャズを聴き始めたのですが、それまでは主にクラシック音楽を聴いていました。 こんな僕をみて親が買ってくれたのが小澤征爾の最初の著書『ボクの音楽武者修行』(新潮文庫)です。1959年、スクーターとギターだけをもって貨物船に乗って音楽の勉強のためにフランスへ渡航。外国語も満足でない23歳の若者が、西洋音楽を本場で研究したい一心で日本を飛び出していった勇気に感動したことを覚えています。 この冒険的な旅行で彼はブザンソン指揮者コンクールで優勝。審査員だった巨匠シュルル・ミュンシュに師事。次いでヘルベルト・フォン・カラヤンに認められベルリンで修業中に、今度はレナード・バーンスタインに呼ばれてニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者となります。この間わずか3年弱。30歳前の若い指揮者が舞い上がるのも無理はありません。元来「向こうっ気が強い」(本人弁)のでNHK交響楽団と摩擦(1961年)を起こしたりしましたが、その後クラシックの本場である欧米で大活躍。タングルウッド(ボストン)、ラヴィニア(シカゴ)の音楽祭の音楽監督、1964年トロント響、1970年サンフランシスコ響、1973年ボストン響(29年間)と一流楽団の音楽監督を務めあげ、2002年のシーズンからクラシック楽壇の最高峰ウィーン国立歌劇場総監督(2010年まで)に就きました。この間、指揮法の恩師斎藤秀雄の名を冠した世界水準のサイトウキネン・オーケストラの結成にも尽力しています。 日本人の海外における活躍は、ややもすると大層に報じられることが多いですが、小澤征爾の場合は、こうしたキャリアを見ても決して過大評価とは言えないと思います。 レパートリーの面からみると、斎藤➡カラヤンという線からはブラームス等ドイツ・オーストリア物とロシア物。ミュンシュ➡ボストン響からはフランス物、バーンスタイン➡ニューヨーク・フィルからはアメリカ物とマーラー作品が浮かびます。このなかでジャズと小澤という観点で探すとバーンスタインの「ウェストサイト・ストーリー・シンフォニク・ダンス」(1972年)、スタン・ケントン楽団のアレンジャーだったビル・ルッソの「ストリート・ミュージック」(1976年)を取り上げています。ルッソ作品はブルース協奏曲ともいうべき貴重な音源です。 よりポピュラーなものを探すとすれば、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の夏の音楽祭「ヴァルトビューネ」におけるガーシュウィン・プログラムのライヴ。ウィーン国立歌劇場の総監督だった2003年6月、マーカス・ロバーツ・トリオとの共演です。小澤のエネルギッシュな指揮と、万を超す客席の興奮、そしてあのベルリン・フィルがジャズを!という感動を味わえるDVDが残されています。 この小澤征爾の盟友ともいうべき人物が世界的に賞賛される作曲家の武満徹です。名曲「ノヴェンバー・ステップス」が1967年ニューヨーク・フィルによってリンカーン・センターで初演されたときの指揮者が小澤でした。 ユニークな作風を持つ武満が、作曲家の清瀬保二、アルバン・ベルク、オリヴィエ・メシアンなどの現代音楽作曲家と並んで、最も尊敬していたのがデューク・エリントンです。彼はこんな言葉を残しています。 「エリントンは、今世紀の最も偉大な音楽家のひとりに数えられていい存在だが、ジャズという音楽への偏見が現在もかなりそれを妨げている。だが、彼の音楽家としての天才を証すのは容易であり、注意深い耳の所有者であれば、その音楽が他の誰からも際立ってオリジナルなものであることが理解できる」 小澤、武満という稀有の音楽家の活動と発言をご紹介しました。噛みしめたいと思います。 (理事長 小針俊郎) 自分の意思でジャズを聴くようになったのは中学に上がった12歳の時だった。ビッグバンドによるジャズが好きで、わずか数枚のLPを繰り返し聴いていた。1960年の頃で、当時としてはかなり偏ったものだった。
このような嗜好を持った理由は映画の影響だと思う。1950年代に幼稚園や小学校に通う私は、両親に連れられてアメリカ映画をたくさんみせられた。映画好きだった父母は、みたい映画が公開されると幼い私を放っておくわけにもいかず、しばしば子連れで映画館に通ったのである。暗い映画館で二時間も大人しくしているのは苦痛だったが、訳もわからずにみているうちに、私はストーリーよりも映画音楽に耳が奪われていった。 1950年代は映画音楽の大家が腕を振るえた最後の時代だった。古典的名匠のマックス・スタイナー、ディミトリ・ティオムキン、アルフレッド・ニューマン、エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト。(当時の)中堅ではバーナード・ハーマン、エルマー・バーンステイン他。 いまでも忘れられないのはエロール・フリン主演の『ロビン・フッドの冒険』『シー・ホーク』など時代物に最高のドラマティック・スコアを書いたコルンゴルトだ。ストーリーもわかりやすく、フリン演じる弓の名手ロビンやソープ船長の活躍と、そのバックで流れるコルンゴルトの爽快な音楽に胸が躍った。 このほかに『南太平洋』をはじめとするミュージカル映画にも魅せられた。要はこれら贅沢極まりなかったハリウッド映画音楽の大管弦楽を使った音楽に惹かれたのである。そこには勇壮、恋情、死闘、大団円を描く分厚いハーモニーを持った音楽が常に付随していた。 クラシック音楽の歴史でいえば19世紀後半のロマン派から後期印象派。作曲家ではブルックナー、マーラー、ラヴェル、ストラヴィンスキーらの管弦楽曲からの影響が強かった。 こんな少年時代を過ごしたので、自然とクラシック音楽も聴いていたが、ジャズの入り口は多人数で演奏されるビッグバンドになったのである。 高校時代になると野毛のジャズ喫茶ちぐさに通い、1960年代の最新のジャズを聴き、来日ジャズメンの公演は片っ端から聴いてまわった。ベイシー、マイルス、ブレイキー、ロリンズ、コルトレーン、モンク、ピーターソン、MJQ、ゲッツ。すべて故人だが、1948年生まれだから辛うじて間に合ったのである。 中でも1964年初来日のデューク・エリントンを聴けたことは、ビッグバンド好きの私にとって生涯の宝である。 (理事長 小針俊郎) |