一般社団法人日本ジャズ音楽協会理事長小針俊郎は、当協会参加団体である一般社団法人横浜JAZZ協会の理事も務めており、同協会が毎月発行する月刊の会報誌HAMA JAZZにエッセイを連載しています。そこで友好団体である同協会の諒解のもと、当協会のホームページにHAMA JAZZ連載の原稿を一部加筆、修正を行うなどしてここに転載することになりました。今後適宜に本欄に掲載いたしますのでご随意にお楽しみください。
我国が誇る世界的な大指揮者、小澤征爾の訃報が届いたのが、さる2月6日(2024年)のことでした。僕は中学校入学とともにジャズを聴き始めたのですが、それまでは主にクラシック音楽を聴いていました。 こんな僕をみて親が買ってくれたのが小澤征爾の最初の著書『ボクの音楽武者修行』(新潮文庫)です。1959年、スクーターとギターだけをもって貨物船に乗って音楽の勉強のためにフランスへ渡航。外国語も満足でない23歳の若者が、西洋音楽を本場で研究したい一心で日本を飛び出していった勇気に感動したことを覚えています。 この冒険的な旅行で彼はブザンソン指揮者コンクールで優勝。審査員だった巨匠シュルル・ミュンシュに師事。次いでヘルベルト・フォン・カラヤンに認められベルリンで修業中に、今度はレナード・バーンスタインに呼ばれてニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者となります。この間わずか3年弱。30歳前の若い指揮者が舞い上がるのも無理はありません。元来「向こうっ気が強い」(本人弁)のでNHK交響楽団と摩擦(1961年)を起こしたりしましたが、その後クラシックの本場である欧米で大活躍。タングルウッド(ボストン)、ラヴィニア(シカゴ)の音楽祭の音楽監督、1964年トロント響、1970年サンフランシスコ響、1973年ボストン響(29年間)と一流楽団の音楽監督を務めあげ、2002年のシーズンからクラシック楽壇の最高峰ウィーン国立歌劇場総監督(2010年まで)に就きました。この間、指揮法の恩師斎藤秀雄の名を冠した世界水準のサイトウキネン・オーケストラの結成にも尽力しています。 日本人の海外における活躍は、ややもすると大層に報じられることが多いですが、小澤征爾の場合は、こうしたキャリアを見ても決して過大評価とは言えないと思います。 レパートリーの面からみると、斎藤➡カラヤンという線からはブラームス等ドイツ・オーストリア物とロシア物。ミュンシュ➡ボストン響からはフランス物、バーンスタイン➡ニューヨーク・フィルからはアメリカ物とマーラー作品が浮かびます。このなかでジャズと小澤という観点で探すとバーンスタインの「ウェストサイト・ストーリー・シンフォニク・ダンス」(1972年)、スタン・ケントン楽団のアレンジャーだったビル・ルッソの「ストリート・ミュージック」(1976年)を取り上げています。ルッソ作品はブルース協奏曲ともいうべき貴重な音源です。 よりポピュラーなものを探すとすれば、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の夏の音楽祭「ヴァルトビューネ」におけるガーシュウィン・プログラムのライヴ。ウィーン国立歌劇場の総監督だった2003年6月、マーカス・ロバーツ・トリオとの共演です。小澤のエネルギッシュな指揮と、万を超す客席の興奮、そしてあのベルリン・フィルがジャズを!という感動を味わえるDVDが残されています。 この小澤征爾の盟友ともいうべき人物が世界的に賞賛される作曲家の武満徹です。名曲「ノヴェンバー・ステップス」が1967年ニューヨーク・フィルによってリンカーン・センターで初演されたときの指揮者が小澤でした。 ユニークな作風を持つ武満が、作曲家の清瀬保二、アルバン・ベルク、オリヴィエ・メシアンなどの現代音楽作曲家と並んで、最も尊敬していたのがデューク・エリントンです。彼はこんな言葉を残しています。 「エリントンは、今世紀の最も偉大な音楽家のひとりに数えられていい存在だが、ジャズという音楽への偏見が現在もかなりそれを妨げている。だが、彼の音楽家としての天才を証すのは容易であり、注意深い耳の所有者であれば、その音楽が他の誰からも際立ってオリジナルなものであることが理解できる」 小澤、武満という稀有の音楽家の活動と発言をご紹介しました。噛みしめたいと思います。 (理事長 小針俊郎)
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