一般社団法人日本ジャズ音楽協会理事長小針俊郎は、当協会参加団体である一般社団法人横浜JAZZ協会の理事も務めており、同協会が毎月発行する月刊の会報誌HAMA JAZZにエッセイを連載しています。そこで友好団体である同協会の諒解のもと、当協会のホームページにHAMA JAZZ連載の原稿を一部加筆、修正を行うなどしてここに転載することになりました。今後適宜に本欄に掲載いたしますのでご随意にお楽しみください。
外山喜雄とディキシー・セインツは横濱ジャズプロムナードの元町パレードに毎年出演する人気バンドで市民にもお馴染みの存在です。外山さんは自他ともに認めるサッチモ、ルイ・アームストロングの大の信奉者です。 7月6日(土)に外山喜雄・恵子夫妻が主宰する日本ルイ・アームストロング協会設立30周年を祝う「感謝の会」が上野精養軒で行われました。横浜ジャズ協会にもご案内がありましたので、加藤寛理事長とともに出席してまいりました。 外山喜雄さんは早稲田大学ニューオリンズ・ジャズクラブ(通称ニューオリ)出身で、クラブで知り合ったピアニスト恵子さんと結婚。新婚早々の1967年12月30日に夫婦で横浜港からぶらじる丸に乗り込み、ニューオリンズへジャズ武者修行の旅に出発したという輝かしい経歴を持っています。 彼の地ではジャズの聖地とされるプリザヴェーション・ホール裏のアパートに住み込み、連日土地の古老たちと演奏を共にし、ニューオリンズ・ジャズの真髄を学びました。この渡米を機会として全米やヨーロッパにも足をのばし、帰国後の1975年にディキシー・セインツを結成。1983年の東京ディズニーランド開業から2006年まで同園のアトラクションとして人気を博します。 日本ルイ・アームストロング協会は、外山夫妻が尊敬するジャズ史上最大の巨人を顕彰する目的で1994年に創立されました。協会の果たした重要な事業がニューオリンズの子供達に楽器を贈る運動です。1990年代に再訪したニューオリンズの荒廃に接し、ドラッグや銃から子供たちを音楽で救おうという志でした。日本全国から中古の楽器を集め、一つ一つ修理を施し今日まで850本の楽器を送り出しました。夫妻はこの功績によって2005年8月に外務大臣表彰を受けています。 「感謝の会」は250人の方々が集う大規模なもので、ディキシー・セインツの他に北村英治さん、中村誠一さんなどのゲスト・ミュージシャン、ニューオリのOBや現役の演奏も行われ賑やかに行われました。 加藤理事長と私はステージに最も近い円卓に案内され、私が理事を務めるもう一つ団体である日本ジャズ音楽協会の靑野浩史さん、田中ますみさん、四谷いーぐるの後藤雅洋さん、音楽評論家の岡崎正通さん、村井康司さんらと楽しく歓談しました。 この時、私の脳裏浮かんだことは、外山夫妻をここまで突き動かしているルイ・アームストロングという存在の大きさでした。私が学生時代(1960年代後半)にスイングジャーナル誌に連載されていた油井正一氏の「ジャズの歴史物語」(1972年スイングジャーナル社より単行本化。現角川ソフィア文庫)のルイ・アームストロングの項目にこんな記述がありました。 「白いハンカチで汗をぬぐいながら恰幅のいい爺さんが目玉をクルクル動かして<ハロー・ドーリー>を歌う。喝采にこたえて後半部を二度三度とくりかえし、歌い終わると両手で投げキッス。次に歌うのは<ブルーベリー・ヒル>だ。こんな寄席芸人じみた爺さんが、本当にジャズ史上最高の巨人だったのだろうか」 これはサッチモが偉大だと聞いてコンサートに出かけたファンの「彼のどこが偉大なのか」という質問に対する油井さんの回答です。彼はこう続けます。 「ジャズは芸術だと信じるファンにとって芸人的なサッチモのステージは屈辱的なものだっただろう。ところがサッチモ自身の見解は全く反対なのだ。彼の見解にしたがえばジャズは芸術ではなく大衆演芸の一種なのである。にもかかわらず、芸術といわれるジャズをつくった当の男がルイ・アームストロングなのだ。この矛盾にみえる論理を理解しないとジャズはあなたのものにならないのである」 戦後にオールスターズを率いて作ったライヴやスタジオ録音は現在も容易に入手できるし、人気もあります。<ハリー・ドーリー>も大ヒットしました。しかし、油井さんに質問したファンと同じように、これらを聴いただけでは私も彼の真の偉大さが解りませんでした。そこであるとき思い切って『Louis Armstrong The Complete Masters 1925-1945』という14枚組のCDを入手しました。14枚目はKing Oliver’s Creole Jazz Bandのメンバーだった頃の録音他の付録的なものですが、1~13枚目までは1925年11月Hot Fiveの初録音から1945年1月録音のLouis Armstrong & his Orchestraまでの331曲。仕事をしながら聞き流すこともありましたが、1925~28年のHot Fiveの演奏の多くは鳥肌が立つような凄みがあり、良好とはいえない録音の彼方から聴こえてくる彼の独奏はまったく古びていないのです。サッチモ以降の芸術的とされる偉人数あれど、一人としてサッチモ影響を被らなかった人はいないと確信できました。 こうしたサッチモ再考の機会を与えてくれたのが外山喜雄・恵子夫妻です。「感謝の会」で供された美酒佳肴を楽しみながら、私はこんなことを考えておりました。 (理事長 小針俊郎)
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