一般社団法人日本ジャズ音楽協会理事長小針俊郎は、当協会参加団体である一般社団法人横浜JAZZ協会の理事も務めており、同協会が毎月発行する月刊の会報誌HAMA JAZZにエッセイを連載しています。そこで友好団体である同協会の諒解のもと、当協会のホームページにHAMA JAZZ連載の原稿を一部加筆、修正を行うなどしてここに転載することになりました。今後適宜に本欄に掲載いたしますのでご随意にお楽しみください。
「光陰矢のごとく、今より五十年を過ぎ、顧て明治前後日本の藩情如何を詮索せんと欲するも、茫乎としてこれを求るに難きものあるべし。」 この文章は福沢諭吉が明治10年に書いた『旧藩情』の末尾部分です。書名をご覧になればお分かりのように、自らの出身藩である中津藩(現大分県中津市)の政治、経済、社会状況を分析している書物で、現代語に訳せば「光陰は矢の如し。これから50年も経てば、かつての藩情などは調べようもなくなるだろう。」 執筆された明治10年は西暦1877年。ここから数えて50年後は1927年。5月にチャールズ・リンドバーグが大西洋無着陸横断飛行に成功し、10月には初のトーキー映画とされる『ジャズ・シンガー』が公開されました。日本では昨年末に保険証新規発行が停止されたことで話題となった健康保険法が施行された年でもあります。 時はすでに昭和のモボモガ時代。福沢が予言したように幕藩時代の諸相など一般人にとっては意識にものぼらなかったでしょう。 福沢諭吉には及びもつきませんが、ぼくも2024年が去るにあたって、ある映画をきっかけに50年という歳月を思うこと頻りでした。今回はそのお話をさせていただきます。 この映画は『That’s Entertainment!』。ハリウッド・メジャーの一つであったMGM社のミュージカル映画のアンソロジーともいうべき作品で、1974年の初夏に日本で公開されました。前評判を聞いていたので、ぼくは銀座ヤマハホールで行われた試写会に駆け付けました。この映画から受けた楽しさは言葉では言い尽くせないほどのもので、映画の終了後、新橋駅に向かう銀座の歩道を踊るような足取りで歩いたことを思い出します。 旧臘、ぼくがこの映画を思い出したのは巻頭にMGM社のあるメッセージが掲げられていたからです。その言葉を紹介します。映画はヘンリー・マンシーニがMGMミュージカルで使われた名曲をメドレー形式に編曲した序曲で始まります。曲が終わって次の場面。MGMの<ARS GRATIA ARTIS(芸術のための芸術)>と書かれたロゴの中、通常ならライオンが咆哮するスペースにこんな文字があったのです。 「Beginning Our Next 50 Years…」。日本語字幕が「新たな50年の幕を開く」とあって、ライオンはこの文字が消えたあとに出てきました。続く場面は名曲「雨に歌えば」が使われた映画の各場面で、1929年初の映画ミュージカル『ハリウッド・レヴュー』から1952年の『雨に歌えば』までの4景が紹介されます。このあとタイトルが出て音楽も「That’s Entertainment!」に変わり、11人の特別出演のスターたちの名が映し出されるという流れ。要するにMGM所縁のスターたちが1974年現在の姿で登場し、往時を振り返りながら案内役を務めているわけです。その名をあげればフランク・シナトラ、エリザベス・テイラー、フレッド・アステア、ビング・クロスビー他11人。 このような細かいことまで書けるのはDVDで確認するからですが、上掲の「Beginning Our Next 50 Years…」だけは試写当日に頭に刻まれました。何故といえば、余りにも遠い未来だったからです。当時26歳だったぼくにとって半世紀先のことなど想像もできません。若い盛りで今日を、明日を楽しむことしか考えていなかった。しかし現実は無情にもぼくの上にも時を刻み、今や老いを養う年齢になった。 MGMを思えば『That’s Entertainment!』公開当時はすでに斜陽で日本支社が閉鎖された年でもあります。こんな環境下ではありましたが、だからこそ盛時の威容を映画史に刻印する狙いが制作陣にはあったでしょう。その後MGMは投資家の間で売買が続き、現在はAmazonの所有になっているとか。 公開当時の批評も「いま必要な映画だろうか」と酷評でした。この年のヒット映画は『日本沈没』、アメリカ映画は『スティング』。両者とも実によく出来た作品です。これらと比べると確かに『That’s Entertainment!』の無邪気さ、能天気さが際立ちます。案内役の一人が言った言葉ですが、そこには深い思想などない。あるのは1930年代から50年代までのアメリカが持っていた歌とダンスだけ。 試写の帰りに銀座通りで踊り出したくなったぼくは、ただ素晴らしさに酔っただけですが、DVDで繰り返し鑑賞するうちに能天気にみえた歌と踊りの芸の深さと、これを産み出そうとする制作者たちの意志の高さに惹きつけられてくる。自慢ではないが、ぼくは往年のアメリカ映画の名作は大概観ています。例えばジョン・フォードの『怒りの葡萄』、エリア・カザンの『エデンの東』などと比べても『That’s Entertainment!』の感動は勝るとも劣らない。それは芸と芸術とを問わず、人間の能力を最大限に注ぎ込み、なお努力の痕跡すらみせない小気味よさにあると思うからです。『That’s Entertainment!』初見から50年。ぼくにとっては、芸の要諦をこう捉えるための時間でした。 馬鹿なことに時間を費やす奴だとお考えの方もいらっしゃると思いますが、生まれながら鈍才故ご容赦を。
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