一般社団法人日本ジャズ音楽協会理事長小針俊郎は、当協会参加団体である一般社団法人横浜JAZZ協会の理事も務めており、同協会が毎月発行する月刊の会報誌HAMA JAZZにエッセイを連載しています。そこで友好団体である同協会の諒解のもと、当協会のホームページにHAMA JAZZ連載の原稿を一部加筆、修正を行うなどしてここに転載することになりました。今後適宜に本欄に掲載いたしますのでご随意にお楽しみください。
4月Saturday Afternoon Jazz Partyで田中和音さんを招いてデューク・エリントンの特集をしたと思ったら、5月25日(土)と6月15日(土)には四谷いーぐるで外山喜雄夫妻と共に『Duke Ellington on Film』という講演会。そして6月9日(日)には若者たちのビッグバンドを戸塚のさくらプラザホールで聴かせていただきました。という訳でここしばらく僕はビッグバンド漬けになっていました。そこで今回は僕のビッグバンド経験のお話をお届けします。 ジャズ・ファンの中にはモダン・コンボしか聴かないという方も多く、ビッグバンドなんて古臭いの一言で片づけてしまう風潮があることは承知しています。しかしビッグバンドにはコンボ演奏に求められない魅力がたくさんあります。 まず15人ほどのプレイヤーが合奏する音の迫力。洗練されたアレンジ、豊かなハーモニーと色彩感。ダイナミック・レンジの大きさなど。聴いてすぐにわかる魅力の他に、一流バンドともなれば各セクションに何人ものソロの達人がいます。ビッグバンドは1920年代から存在しました。わが国にも1930年代から中沢寿士、松本伸、ジミー原田などの人気バンドがありました。ジャズが敵性とされた太平洋戦争を挟んで、戦後は米国から素晴らしいビッグバンドが続々来日します。戦後間もなくは米軍基地慰問のため一般公演はありませんでしたが、日本の庶民が最初に耳にしたスター・プレイヤーは1952年11月のジーン・クルーパ、1953年のJATP、同12月のルイ・アームストロング。1956年レス・ブラウン楽団、1957年1月ベニー・グッドマン楽団。まだ子供だったのでこれらは聴いていませんが、僕が最初に接した来日ビッグバンドは1963年4月のライオネル・ハンプトン楽団、5月のカウント・ベイシー楽団、64年1月のレイ・マッキンレイ指揮のニュー・グレン・ミラー楽団、4月のハリー・ジェイムズ楽団、6月のデューク・エリントン楽団などです。 思えばここに名をあげた人々は全て故人です。ビッグバンドがビッグバンドらしかった時代に生きてこられてよかったと思いますが、懐古趣味に浸っている場合ではないと希望を持たせてくれたのが上述6月9日(日)に聴いたBIG BAND PARTYです。出演バンドは「富士学苑中学・高等学校ジャズバンド部」「Sasage Several Guys Orchestra」「Swing Bees Jazz Orchestra」「横濱J &Bオーケストラ」「横濱音泉倶楽部」の5バンド。個別に論評する場ではないので評言は控えますが、彼らの演奏を聴いてつくづく思ったのは「なんて上手いんだろう!」ということ。そして思い出したのは僕が彼らと同じくらいの年代に体験したことです。 僕が中高生時代を過ごした1960年代。通っていた学校にも吹奏楽部がありました。彼らが演奏するのは専らスーザの行進曲などで、ジャズの演奏は禁じられていました。指導の教師にとってジャズとは騒々しいだけの下等な音楽だったのでしょう。 ある事件を目撃したことがあります。僕が高校一年か二年生のときだったと思います。ある日、学校の式典で吹奏楽部が舟木一夫のヒット曲「高校三年生」を演奏しました。部員のなかでは高校生の青春を歌ったものだから学校側も容認するだろうという思い込みがあったのかもしれない。曲も2拍子でマーチ風だからやってみようと。ところがこれを聞いた校長が壇上にあがって、流行歌などは不謹慎だと長々と説教を垂れた。僕にとってはどうでもいい曲なので、校長の怒りを嗤っていましたが。 この事件からややあって、我々は紅葉坂の神奈川県立音楽堂で横須賀米海軍基地所属の軍楽隊の演奏会を鑑賞することになりました。本場の精鋭たちの演奏によって吹奏楽の真髄を学ばせようという課外教育だったのでしょう。ステージ上には紺色のセーラー服を着た大男たちがずらり。体格にふさわしく、その音の太くたくましいこと、そして艶やかで美しいことに感動しました。 そしてここでも事件が起こります。第二部が始まると、指揮者を要とする扇型の配列が、下手にリズム・セクション、上手寄りにブラスとリード・セクションというビッグバンドの並び方に代わっているではありませんか。見守るうちに聴こえてきたのはカウント・ベイシーのような紛うかたなきビッグバンド・ジャズ。僕は心の中で快哉を叫びましたが、引率の教師たちは生徒をまずいところに連れてきたという面持ち。まさか米海軍軍楽隊を叱責するわけにもいかず、なんとか体面を保とうする彼らをみて、ここでも僕は嗤いました。 あれから60年。ジャズは唾棄すべき下劣な音楽から、青少年が学ぶべき音楽になりました。父兄教師ともこれを容認するどころか、賞賛さえする風潮があります。この変化の要因はなにか。 日本文化研究者で早稲田大学名誉教授のマイク・モラスキーは著書『戦後日本のジャズ文化』(岩波現代文庫)のなかで、映画監督の黒澤明が作品中(『酔いどれ天使』『生きる』他)に使う音楽の種別を分析し、クラシック(的な音楽)を高尚文化の表象。ジャズ(的な音楽)を「下層の俗な汚れた世界を象徴」であり「堕落の世界、浅薄な精神、そして狂気」に結びつくものと考察しています。 黒澤がこのように音楽を使い分けたということは、それが当時(1950~60年代)の世間常識に即した演出手法と確信していたためだったでしょう。確かに当時の一般のジャズ認識は雑駁なもので、クラシック以外の欧米から渡来する音楽(ラテン、シャンソン、ハワイアン、カントリー他)はすべてジャズの一言で片づけられる傾向がありました。それが象徴するものが堕落や狂気でした。 演奏家本人もバンド稼業と自嘲し、不品行を嘯く節がありました。教師や父兄が子弟の感化を警戒しないはずはありません。しかし日本が豊かになるとともに、偏見に満ちた固定観念が薄れはじめます。ジャズの高度な芸術性やクラシックに劣らぬ楽理体系が見直されるようになり過度の警戒心も寛解。現在では一流の音楽大学にもジャズ科が設置されています。世界的にみても優秀な音大出身のジャズ・パーソンは少なくありません。では現在のジャズに、かつてのチャーリー・パーカーやスタン・ゲッツ(天才を謳われる一方不品行でも有名)を凌ぐ存在があるのか。 芸術をとらえる上で、品行と狂気という背反する問題がそこには横たわっていると思います。クラシックの世界でもモーツァルト、シューマン、ワーグナーなど狂気紙一重の人が多くいるわけですし。 (理事長 小針俊郎)
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